大森靖子 : 魔法が使えないなら死にたい
ARTIST / 大森靖子
TITLE / 魔法が使えないなら死にたい
LABEL / pink records
DATE / 2013
TITLE / 魔法が使えないなら死にたい
LABEL / pink records
DATE / 2013
2199。情報をアップデートすることにご執心のLサイドからのささやかな提案。なるほど。これが最先端のアイドル・ミュージック、なのか。1987年生まれ、現在すでに20代後半に入り込んだ一人の女子がアイドルを提示できるのか。そんなことはどうでも良い。結論を急ごう。このご時勢、なかなか生まれがたい歌モノの名盤である。誤解を恐れずに言おう。いくつかよい曲がある。良い歌詞が、その瞬間が、ぶよぶよとした贅肉だらけの日常描写にさしはさまれる。空虚な歌ではない。空虚な愛の歌ではない。われわれが飛びつくべきアイドル・ミュージックから離れ、とにかくエッジを効かせて(それが大いに間違ったださださの言葉の寄せ集めだとしても)、その中に、ふと差し込まれる願いや祈り。そのリアリティが際立って刺さる。もう一度言おう。いくつかよい曲がある。もっと適切にいえば、素晴らしい歌がある。名曲と言い換えてもよい。本当にこれは、すごい、という形容詞をあげてもよいぐらい、僕は本作で満足を覚えた。まずはyou tubeである程度こすられている曲、M2「音楽を捨てよ、そして音楽へ」。彼女が愛するのは音楽である。かつて美大生として、絵をかいていたらしい彼女が最後の卒業発表の展示でも音楽をやった。彼女と自己同一化されるのは音楽である。タイトルからあふれる矛盾は、魔法を信じる続けるかい?と中村一義に教えられた僕ら世代にとって(そういうえば話は変わるが、本作に中村的な瞬間があることは明記すべきだろう。『太陽』収録の「いつも二人で」と本作収録M11の「歌謡曲」との類似性はただの偶然だろうか。割と名曲である)、新たな視座を与えている。そこで語られる卑近な言葉たち、たとえば、脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能というださださな言葉たち。愛してるよと幻聴のように垂れ流されてはじまるこの言葉たちは、後半になって一気に最後で化ける。
音楽は魔法ではない
という言葉。この言葉が偏執狂てきに繰り返される。まるで自分に言い聞かせるように。幻聴的に。
そして最後の最後で提示される、
でも音楽は
という逆説による終着。彼女の信じているものが響くそのときに、僕たちは色モノとして存在するただの腐れアイドルとは違う、まさに魂を宿した歌を歌う作家であることを突きつけられるのである。大森靖子が(ただ、この曲がほほえましくなってしまうのは最後の最後にAメロに戻るという構成上のだささにある。好き嫌いだろうが)。大森靖子が。
下の名前の読みはヤスコではなく、セイコである。ヤリマンかどうかは定かではない。
思えばキャッチーな曲が多い。それぞれで違うボーカリストとしての面を見せる。かわいこぶったり、フォーク歌手のように歌ったり、叫んだり、彼女は本当に歌を自在に使い分けていると思う。その点もなかなか素敵だと思う。いろんなものを剽窃して、たとえばジャケが椎名林檎の『勝訴ストリップ』のオマージュなのかなんだかであって、彼女が「新宿」であったりを歌うあたり、なんだか「歌舞伎町の女王」を標榜した椎名林檎からの影響圏にある、と言えなくもない。なるほど。但し彼女が抱えているどうしようもないたるんだサブカル臭が、椎名林檎のそれとはまったく異なるのだと思う。
大森靖子は重度のハロヲタだという。その自己演出だかなんだかが、成功しているかどうかは別として、ポストモダンなアイドルとしてメタアイドル化することで、自分をこすられる記号として化かすことになんとなく成功していなくもない。「高円寺」が歌われるというどうしようもないサブカル臭。ロマン的なエモ。理解できると思う。
本作の1つの白眉は本当に魔法=音楽が語られるフィナーレだと思う。まず音楽としての構成が卓抜だと思う。フリーキーな展開がドキドキする。ブロークンに歌われる新感覚風の日常系Aメロから祈りへの移行が曲と見事にあっている。ものすごい腑に落ちる感覚。ふとした瞬間に、ただのしょうもない女の子が、ふとした瞬間に詩を吐いたときに心が奪われるような感覚。
照らせ今 照らせ未来
ぐるぐる回る孤独を照らせ
魔法が使えないなら死にたい
魔法が使えないなら死にたい
この曲のアクセントとしても強く発される「照らせ今 照らせ未来」という言葉は、平凡なフレーズであるにも関わらず、全体性のなかでまさに照らし出される。ここで僕たちは大森靖子を信じたくなるのであった。そして、言うまでもなく、彼女は魔法ではないが、しかし、でも、そんな音楽を、魔法を、きっと使えるに違いない。
と、ここまでは、すでにyou tubeさんから学んだ情報で分かっていたことだが、僕が本作で不覚にもどんはまりしてしまった曲があるとすれば、それはM9の「最終公演」。古きよきドラマチックなジェイポップに歌い手としての力をいかんなく詰め込んだ大森の魅力が堪能できる。名曲だと思う。
歌を歌えば最後の祭り
...
飛んだり跳ねたりする踊りは
disco!
life is dead.
...
おろかな過去もステージの上
誰かが笑ってくれるのさ
life is this. 猛る音楽
...
猛る思い 猛る思い 猛る思い
この猛る音楽から猛る思いまでの展開は本当に、素晴らしいパフォーマンスだと思う。彼女が近年まれに見る歌手であるということの証左であるように思う(ただ、大森のかわいらしさというか趣味の問題なのだろうけれど、やっぱり最後にもう一度、歌を歌えば最後の祭り、というフレーズを入れなくてもよかったと思う。蛇足だと思う。)
並びたてた言葉たちが、大森を誤解させるとすれば、たしかに抽出されることによって空虚化するかもしれない。そういう意味では、関係のなかで大森の祈りが現れるということは彼女の名誉のために言っておかねばならない。この曲を聴いて、繰り返し聴いて、本当に彼女はかっこいい作家だと思った。ブシは、剽窃やらなんやらで、瓦解しているが、彼女が持つ声は、7変化しながらも、しっかりと彼女の作家性を主張しているように思う。それが本当に最近では稀に見るほど、僕が繰り返し聴いてしまう理由なのだと思う。
モー娘。の道重もキャリーぱみゅぱみゅもとにかく、自分を下部構造へと偽装するための踏み台として、大森靖子がホンモノかどうか、近々ライブを確認してみたいと思う。その上で、いつか彼女が、たとえばミュージック・ステーションで、演奏することを夢見て。メンヘラ臭さえ忘れさせる音楽への盲信に惜しみない拍手を。誤解を恐れずに賞賛しすぎか。いやそんなことはない。現在進行形のジェイポップもやっぱり捨てたもんじゃない。音楽はあるのだ。
音楽は魔法ではない
という言葉。この言葉が偏執狂てきに繰り返される。まるで自分に言い聞かせるように。幻聴的に。
そして最後の最後で提示される、
でも音楽は
という逆説による終着。彼女の信じているものが響くそのときに、僕たちは色モノとして存在するただの腐れアイドルとは違う、まさに魂を宿した歌を歌う作家であることを突きつけられるのである。大森靖子が(ただ、この曲がほほえましくなってしまうのは最後の最後にAメロに戻るという構成上のだささにある。好き嫌いだろうが)。大森靖子が。
下の名前の読みはヤスコではなく、セイコである。ヤリマンかどうかは定かではない。
思えばキャッチーな曲が多い。それぞれで違うボーカリストとしての面を見せる。かわいこぶったり、フォーク歌手のように歌ったり、叫んだり、彼女は本当に歌を自在に使い分けていると思う。その点もなかなか素敵だと思う。いろんなものを剽窃して、たとえばジャケが椎名林檎の『勝訴ストリップ』のオマージュなのかなんだかであって、彼女が「新宿」であったりを歌うあたり、なんだか「歌舞伎町の女王」を標榜した椎名林檎からの影響圏にある、と言えなくもない。なるほど。但し彼女が抱えているどうしようもないたるんだサブカル臭が、椎名林檎のそれとはまったく異なるのだと思う。
大森靖子は重度のハロヲタだという。その自己演出だかなんだかが、成功しているかどうかは別として、ポストモダンなアイドルとしてメタアイドル化することで、自分をこすられる記号として化かすことになんとなく成功していなくもない。「高円寺」が歌われるというどうしようもないサブカル臭。ロマン的なエモ。理解できると思う。
本作の1つの白眉は本当に魔法=音楽が語られるフィナーレだと思う。まず音楽としての構成が卓抜だと思う。フリーキーな展開がドキドキする。ブロークンに歌われる新感覚風の日常系Aメロから祈りへの移行が曲と見事にあっている。ものすごい腑に落ちる感覚。ふとした瞬間に、ただのしょうもない女の子が、ふとした瞬間に詩を吐いたときに心が奪われるような感覚。
照らせ今 照らせ未来
ぐるぐる回る孤独を照らせ
魔法が使えないなら死にたい
魔法が使えないなら死にたい
この曲のアクセントとしても強く発される「照らせ今 照らせ未来」という言葉は、平凡なフレーズであるにも関わらず、全体性のなかでまさに照らし出される。ここで僕たちは大森靖子を信じたくなるのであった。そして、言うまでもなく、彼女は魔法ではないが、しかし、でも、そんな音楽を、魔法を、きっと使えるに違いない。
と、ここまでは、すでにyou tubeさんから学んだ情報で分かっていたことだが、僕が本作で不覚にもどんはまりしてしまった曲があるとすれば、それはM9の「最終公演」。古きよきドラマチックなジェイポップに歌い手としての力をいかんなく詰め込んだ大森の魅力が堪能できる。名曲だと思う。
歌を歌えば最後の祭り
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飛んだり跳ねたりする踊りは
disco!
life is dead.
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おろかな過去もステージの上
誰かが笑ってくれるのさ
life is this. 猛る音楽
...
猛る思い 猛る思い 猛る思い
この猛る音楽から猛る思いまでの展開は本当に、素晴らしいパフォーマンスだと思う。彼女が近年まれに見る歌手であるということの証左であるように思う(ただ、大森のかわいらしさというか趣味の問題なのだろうけれど、やっぱり最後にもう一度、歌を歌えば最後の祭り、というフレーズを入れなくてもよかったと思う。蛇足だと思う。)
並びたてた言葉たちが、大森を誤解させるとすれば、たしかに抽出されることによって空虚化するかもしれない。そういう意味では、関係のなかで大森の祈りが現れるということは彼女の名誉のために言っておかねばならない。この曲を聴いて、繰り返し聴いて、本当に彼女はかっこいい作家だと思った。ブシは、剽窃やらなんやらで、瓦解しているが、彼女が持つ声は、7変化しながらも、しっかりと彼女の作家性を主張しているように思う。それが本当に最近では稀に見るほど、僕が繰り返し聴いてしまう理由なのだと思う。
モー娘。の道重もキャリーぱみゅぱみゅもとにかく、自分を下部構造へと偽装するための踏み台として、大森靖子がホンモノかどうか、近々ライブを確認してみたいと思う。その上で、いつか彼女が、たとえばミュージック・ステーションで、演奏することを夢見て。メンヘラ臭さえ忘れさせる音楽への盲信に惜しみない拍手を。誤解を恐れずに賞賛しすぎか。いやそんなことはない。現在進行形のジェイポップもやっぱり捨てたもんじゃない。音楽はあるのだ。